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釜山の歴史

現在、釜山には先史時代の遺跡が多数存在している(旧石器時代の遺跡4ヶ所、新石器時代の遺跡20ヶ所以上、青銅器時代の遺跡40ヶ所以上)。これらの遺跡や遺物を通して、旧石器時代から青銅器時代にかけての釜山の先史時代の軌跡を辿ることができる。

かつて、洛東江(ナクドンガン)を中心とする釜山・金海地域では、金官伽耶が栄えていた。金官伽耶は「鉄の王国」とも呼ばれ、鉄文化を基盤として繁栄し、同地域の中心勢力として伽耶諸国を率いていた。その後、金官伽耶をはじめとする伽耶諸国は新羅に併合された。

統一新羅時代、東莱(トンネ)郡は東平(トンピョン)県と機張(キジャン)県を治める独立した郡であった。しかし、統一新羅時代末期から高麗時代初期にかけて東莱郡は蔚州の属県である東莱県となり、それに伴い機張県は蔚州の属県に、東平県は楊州の属県となった。

朝鮮時代に入ると、国の関門であった釜山は対日外交の中心地として急速に発展した。1547年の「丁未約条(ていびやくじょう) 」締結直後、東莱は府に昇格し東莱都護府となり日本に正三品堂(官職の階級)の上官を派遣した。特に、倭館を管轄していた東莱府使は、対日外交の第一線として外交と軍事における重大な責務を担っていた。釜山浦に置かれた倭館は日本人の居住地、また、日朝の貿易や両国の人々の交流の場であった。

1876年の開港を機に釜山には近代化の波が押し寄せ、伝統都市東莱と並行して現在の中央洞地域も発展していったが、日本帝国主義の侵略により、日本の大陸進出に向けた橋頭堡として与えられた役目を果たすに留まらざるを得なかった。

日本の植民地支配からの解放後の朝鮮戦争(1950年)により大韓民国の大部分は戦火を受けて荒廃し、あちこちが戦争の傷痕で覆われた。しかし、幸い釜山は直接的な戦火を免れており、逃れてきた多くの避難民が生活の基盤を築いた。

釜山は戦後、大韓民国の新たな跳躍の基盤となり、経済発展を牽引してきた。釜山港は、大韓民国の輸出拡大に向けた前進基地として貿易の拠点となった。また、繊維・履物産業等の軽工業を中心に産業化が進んだことで他地域から人口が流入し急速な成長を遂げた。これらの過程を経て、釜山は商業の都市として生まれ変わっていったのである。

近代以降、釜山は商業都市への変化を遂げており、多様性のある活力に満ちた地域社会を築いてきた。釜山市民の民主化への熱い思いは、1979年10月16日、ついに巨大な渦となり民主化運動を巻き起こした。2019年、「釜馬民主抗争」40周年の年、この日(10月16日)は国家記念日に定められた。「釜馬民主抗争」の真の意味が40年の歳月を経て再確認されたと同時に、韓国の民主化に向けて釜山市民が大志を抱き共に歩んできたことが改めて評価されたのである。

多様性のある活力に満ちた釜山の市民は、韓国の政治社会史発展の起爆剤となり、 韓国の経済発展に大きく貢献してきた。しかし、首都圏への政治・経済の一極集中と地方のドーナツ化現象が深刻化しており、今後釜山がさらに飛躍的な発展を遂げるには再び市民が力を合わせなければならない。

現在、釜山は関門空港として新空港の建設、「2030国際博覧会」の誘致、北港再開発など「都市大改造計画」を推進し、都市としての飛躍的発展を目指し取り組んでいる。

出典: 釜山広域市史編纂委員会、「釜山歴史散策」、釜山広域市、2020