第2常設展示室
本館4階の第2常設展示室では、独立後の釜山が「解放空間」として歩み始め、韓国戦争時には避難首都として激動の時代を経験しながら、やがて産業都市へと成長していく姿を紹介しています。1960~1970年代の産業発展や政府直轄市への昇格、韓国の輸出入の玄関口として発展した釜山の歩みも振り返ります。
また、都市の成長とともに、4.19革命、釜山民主抗争、6月抗争など、1960年代から1980年代にかけて釜山が民主化運動の中心となり、決定的な役割を果たした歴史についても、関連資料を通してご覧いただけます。
生存と希望の街

本館4階にある第2常設展示室では、独立後、建国準備委員会と治安隊が自治活動を通じて釜山のさまざまな課題の解決に取り組んだ時代を紹介しています。釜山は米軍政下で人口の急増や食糧不足、物価や失業率の高騰などにより、市民の暮らしは一層厳しくなりました。
1950年に韓国戦争が始まると、国会や大統領、政府が釜山に避難し、軍事施設や各国大使館、国連関連機関、学校なども釜山に集まりました。釜山は人と物資が集結する行政・政治・復興の中心地となり、戦火を逃れるために多くの人々が釜山を目指して果てしない行列を作りました。旧市街周辺の空き地や山裾は避難民のテントで埋め尽くされ、水不足や火災も多発しました。
人々は生きるために、どんな仕事でも懸命に取り組みましたが、その中でも希望を捨てず学び続けました。この時期、釜山は多くの人々にとって「生存と希望の街」となったのです
産業化時代の釜山と釜山の人々

釜山は、独立と戦争を経て、人口の増加と援助物資が集まる港という有利な条件を活かし、工場が建ち、企業が集積したことで産業都市として発展していきました。1960年代、政府による経済開発5カ年計画の推進や、釜山が政府直轄市へ昇格したことをきっかけに、産業の高度成長が始まりました。
この時期、繊維・金属・化学・ゴムといった労働集約型産業が大きく成長し、とくに繊維や合板、靴産業は1970年代まで順調に発展を続けました。1970年代に入ると、旅客や貨物の輸送網が拡充され、釜山港の開発事業によって港湾施設も大きく拡張され、釜山は韓国の輸出入の玄関口としての役割を強めていきました。
仕事を求めて農村から多くの人が釜山に移り住み、人口は急増しました。こうした都市労働者は製造業や水産業、物流業などで働き、釜山の産業化と輸出の最前線を支えました。
一方、急速な産業化と人口増加の裏側では、住宅不足や交通渋滞、環境汚染、劣悪な労働環境や労働者の待遇など、都市化と産業化がもたらすさまざまな社会問題も表面化しました。
釜山、民主抗争の中心に立つ

釜山の人々の民主主義への熱い思いは、李承晩(イ・スンマン)政権の独裁と不正選挙に抗議した4.19革命を経験し、さらに強くなりました。1979年10月には、釜山市民が釜馬民主抗争を起こし、維新体制を崩壊させる決定的な役割を果たしました。この釜馬民主抗争で蒔かれた抵抗の種は、1980年の5.18光州民主化運動を経て、1987年6月の6月民主抗争で大きな実を結び、韓国の民主化運動の重要な出発点となりました。
6月抗争以降、釜山地域の民主化運動は1990年代の市民運動へと発展し、地域社会の民主的な発展に大きな影響を与えました。1987年以降は、民主主義が制度として定着し、市民社会の中で実質的な民主主義の実現を目指す市民運動が広がっています。